今月の言葉(2018年5月)
※「今月の言葉」は、山門(A)と通用門(B)の各掲示板に毎月初めに掲示します。
(山門脇の「言葉」は、真宗教団連合発行の「法語カレンダー」より)
※恥ずかしながら、住職が揮毫した「言葉」を掲示しています。
今月の言葉(A)
「かの如来の本願力を観ずるに
凡愚遇[もうお]うて空しく過ぐるものなし」
(親鸞聖人作『入出二門偈頌』より)
現代語訳
阿弥陀仏の本願のはたらきに遇っものは、愚かな凡夫であっても、いたずらに迷いの生死を繰り返すことはない。
※本願・・・それが完成しなければ仏(真理をさとったもの)にならないという誓いをともなっているので、誓願ともいわれる。阿弥陀仏の衆生救済のための根本となる願い。
※本願力・・・本願にかなって成就された人々を救う救済のはたらき。
本願力に出遇い、お救いの確かさに安心して私たちは不安な日々を迷いながらも暮らすことができるということでしょう。しかも、愚かな私であっても、いや、愚かな私だからこそ、のお救いです。
今月の言葉(B)
「ひまがないとは気がないことよ
参る気がありゃひまもある」
(肥後 平島キク師)
上の「今月の言葉(B)」と同じ法語カレンダーの1986年版で見つけた言葉ですが、平島氏については調べても残念ながらどんな方なのかわかりませんでした。
この言葉、誠にその通りと思います。怠惰な私にはとても耳に痛いです。
「いつやるか?今でしょ!」とはなかなかいきません。
永代経法要講師の橋本先生は法話の中でかつて、「忙」とは「心(立心偏)を亡くす」ことと教えてくださいました。「忙しい」は大方、心に余裕のないことを指していると思いますが、ある時は「忙しいこと」が歓迎され、別の時は勘弁してほしい、と使われ方はいろいろです。
そんな中、忙しくしていると何となく充実している気分になることがあります。実は、要領が悪くて仕事が溜まっただけかもしれませんが・・・。ともかくいずれ心を亡くすことになることも知らず、その充実感が自分が正しいことを一生懸命している、自分の行動は間違っていないことの証しと思い違いをし、独りよがりで反省の余裕のない人間にしていることがあるような気がします。というよりも毎日毎日そういう暮らしをしていると言った方が正しい気がします。そして、そういう時に限って、身の回りで誤解やトラブルが起こります。当然です。知らず知らずに自分本位になっているのですから。従ってそのトラブルの原因は自分自身にある、ということがこれまた日常の真実のような気がしています。