今月の言葉(2018年3月)
※「今月の言葉」は、山門(A)と通用門(B)の各掲示板に毎月初めに掲示します。
(山門脇の「言葉」は、真宗教団連合発行の「法語カレンダー」より)
※恥ずかしながら、住職が揮毫した「言葉」を掲示しています。
今月の言葉(A)
「本願をききて 疑うこころなきを 聞[もん]というなり」
(親鸞聖人作『一念多念文意』より)
これは、『仏説無量寿経』に説かれている「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転(あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向せしめたまへり。かの国に生ぜんと願せば、すなはち往生を得、不退転に住せん)」の、「聞其名号」について述べている中での言葉です。
聞即信といわれますように、聞は信心を示します。
※本願・・・それが完成しなければ仏(真理をさとったもの)にならないという誓いをともなっているので、誓願ともいわれる。阿弥陀仏の衆生救済のための根本となる願い。
※『一念多念文意いちねんたねんもんい』・・・専修念仏は一念多念のいずれにも偏執しない、念仏往生の義であることを明らかにしたもの。『一念多念証文』ともいう。
※専修[せんじゅ]念仏・・・南無阿弥陀仏(念仏)を称えることだけを修すること。
※一念多念・・・浄土往生は信心一つで決定する、または1回の念仏だけで決定するとし、その後の念仏を軽視する一念義の説と、一生涯、数多くの念仏を称え、臨終来迎(臨終時に阿弥陀如来がその人を迎えに来ること)をまって浄土往生が決定するという多念義の説。または、両者の論争のこと。
今月の言葉(B)
「我身わるいはどこから知れた おじひの光明に照らされて」(小川仲造師)
「浅学菲才の私」「何もできない私」「私のような者が・・・」はよく口にする言葉ですが、どれも「私」を「お前」に代えて他人から言われたら冷静ではいられません。言葉の上ではいくら謙虚であっても、心底自分の至らなさを認めることはとても難しいです。そういう自分に気づかしてくれる存在、自分の物差しとは違う別の物差しを当ててくださる存在を持つことは非常に大事だと思います。
この頃の宗教離れの傾向は、自分以外の物差しを放棄しているように感じます。その物差しは宗教とは限らないかもしれませんが、常に自分の考えは正しいのか、自分に都合の良いことになっていないか、と見つめ直すことのできる場を持つことが大切のように思います。
小川仲造師(1842~1912)は島根県江津市嘉久志生まれ。35歳の頃に愛児を次々に失い、深く無常を感じて熱心に聞法するようになった。妙好人の一人。