宗圓寺(そうえんじ)は、西本願寺のお寺です。名古屋は西本願寺のお寺が少なく、「なかなか西本願寺の寺が見つからない」といわれます。新たに寺をお探しの方、故郷にお手次寺があるけどこの地でお参りできる寺を探したい方、当サイトをご覧いただきましたらどうぞ、宗圓寺にご連絡ください。名古屋の中心に所在しますから、市内全域はもちろんその周辺までお伺いできます。そして何よりも、丁寧な読経を心がけています。
 宗圓寺ホールは、宗旨や業者を問わずどなたでも葬儀にご利用いただけます。落ち着いた雰囲気で、家族葬や小規模葬に最適です。また、ご葬儀以外のご利用にも対応しますので、ご相談ください。
 お参りできる場所があることの安心はとても大きいと思います。当サイトにお越しくださった皆様方との新たなご仏縁に感謝いたします。合掌  宗圓寺住職 

2019/03/04

今月の言葉(2019年3

 ※「今月の言葉」は、山門(A)と通用門(B)の各掲示板に毎月初めに掲示します。
    (山門脇の「言葉」は、真宗教団連合発行の「法語カレンダー」より)
 ※恥ずかしながら、住職が揮毫した「言葉」を掲示しています。
 ※2019年1月より、A3用紙に仏教に関する内容を簡単にまとめ、「A3仏教」と名付けて上記掲示板に掲示することにしました。若干手を加える場合がありますが、ここにも掲げることにします。


【今回は公開が遅れてしまいました。3月に入ってすぐに訪問してくださった方に  は大変、失礼いたしました。どうぞ、お許しください。】


今月の言葉(A)

「われらは善人にもあらず賢人にもあらず」 
               (親鸞聖人著『唯信鈔文意 』より)


現代語訳
わたしたちは善人でもなければ、賢者でもない。(続いて・・・賢者というのは、立派ですぐれた人のことである。ところがわたしたちは、仏道に励む心もなく、ただ怠けおこたる心ばかりである。心のうちはいつも、むなしく、いつわり、飾り立て、へつらうばかりであって、真実の心がないわが身であると知らなければならないというのである。)

わたしたちは善人でもなければ、賢者でもない。その通りですが(ただし、自分ではそうだと認めたくない)、ならばわたしたちは救われぬ身なのでしょうか。
中学校の教科書にも「悪人正機説」はでてきます。以下有名な『歎異抄』より、その部分を現代語訳で引用します。

善人でさえ浄土に往生することができるのです。まして悪人は言うまでもありません。
ところが世間の人は普通、「悪人でさえ往生するのだから、まして善人はいうまでもない」といいます。これは一応もっともなようですが、本願他力の救いのおこころに反しています。なぜなら、自力で修めた善によって往生しようとする人は、ひとすじに本願のはたらきを信じる心が欠けているから、阿弥陀仏の本願にかなっていないのです。しかしそのような人でも、自力にとらわれた心をあらためて、本願のはたらきにおまかせするなら、真実の浄土に往生することができるのです。

※本願・・・それが完成しなければ仏(真理をさとったもの)にならないという誓いをともなっているので、誓願ともいわれる。阿弥陀仏の衆生救済のための根本となる願い。
※自力・・・自力の力で善根を修め浄土へ往生しようとすること。阿弥陀仏の本願を疑う行者自身のはからいのこと。
※唯信鈔文意・・・親鸞聖人が、同じ法然聖人門下の先輩にあたる聖覚法印の著わされた『唯信鈔』について、その題号および引証された経釈の要文に註釈を施された書物である。



今月の言葉(B)

「命を見つめる木の命を土の命を人の命を 
                          (喜多内十三造師


春になりました。学生さん進級・進学あるいは社会へ飛び出します。植物も芽吹き花を咲かせる。さまざまな命がspring(バネのようにハネる躍動)する季節になりました。わが身わが命だけでなく、周囲のすべての命に目を向けてみたい季節です。わが命が実」にさまざまな他の命によって生かされていることに気づきます。

※喜多内十三造・・・調べてもよくわからなかったのですが、詩人で多くの著作がおありのようです。






 《 命日 》 「A3仏教」2019.3
 
 「ご命日はいつですか?」と問われれば普通、亡くなった日を答えるでしょう。その通りではあるのですが実は、「仏さまの命の誕生日」なのです。
単に亡くなった日というのではなく、浄土真宗では「浄土に生まれ往く(往生)」の日、つまり、浄土で仏さまに生まれ変わる日なのです。お葬式は悲しいものですが、この意味からすれば「命日」は実にめでたい日。ですから、お葬式に赤飯を出す地域があるのですね。
住職も友人住職のお母様がお亡くなりになった時、「・・・(ご往生されて)おめでとうございます」と打電しました。その弔電がお葬式内で披露された折、参列者の方から「ホーッ」と声が出て、その後に「南無阿弥陀仏」とお念仏が出てくださったそうです。
大学で一緒に過ごした彼だからこそそういう弔電を届けることができた訳で、普通ではとても無理なことでしたが、その寺のご門徒方は私の思いを瞬時に理解してくださったようです。