今月の言葉(2018年12

 ※「今月の言葉」は、山門(A)と通用門(B)の各掲示板に毎月初めに掲示します。
    (山門脇の「言葉」は、真宗教団連合発行の「法語カレンダー」より)
 ※恥ずかしながら、住職が揮毫した「言葉」を掲示しています。


今月の言葉(A)

「自然じねんというはもとより
   しからしむるという言葉なり」 (親鸞聖人著御消息より)

現代語訳
「自然」というのは、もとよりそのようにあらしめるという言葉です。
(つづいて・・・「自然」ということについて、「自」は「おのずから」ということであり、念仏の行者のはからいによるのではないということです。「然」は「そのようにあらしめる」という言葉です。「そのようにあらしめる」というのは、行者のはからいによるのではなく、阿弥陀仏の本願によるのですから、それを「法爾ほうに」というのです。「法爾」というのは、阿弥陀仏の本願によってそのようにあらしめることを「法爾」というのです。)

※自然[じねん]・・・一般的には人為的なものに対して、人為をからず、自ずからそうなっていること。この場合は「自[おの]ずから然[しか]り」と読む。親鸞聖人は「自ずから然らしむ」と読み、人間のはからいを超えた阿弥陀仏のはからいによる救いをあらわす語とした。

※御消息・・・手紙や手紙の形式をとった法語などのこと。


今月の言葉(B)

「他力他力と思うていたが思う心がみな自力」
                          (加賀 森ひな師


上の言葉に「ああ、恥ずかしい南無阿弥陀仏」と続く。
先月の『今月の言葉』は「ありがたいこっちゃ もったいないこっちゃ はずかしいこっちゃ なんまんだぶ」でしたが、それに通ずるお言葉だと思います。
私を見捨てずにはおかない阿弥陀様に抱かれていることを知った時、自分に都合よくしか見られないわが姿を、素直に赤裸々な我が姿として見ることができるのでは。そんな時、「ああ、恥ずかしい南無阿弥陀仏」となるのではないでしょうか。
どこまでも「我」を離れることのできない自己中心の私、「他力」を知ってそうだそうだと思っているうちにいつしか「他力」を自分を守る鎧よろいにしてしまう私。

※森ひな師・・・1887年、石川県生まれ。現代の妙好人の一人で、「鈴木大拙選集」にも取り上げられている。
「自分のひと思いも自分ではない、仏様のおはからい」と言う。自分のはからいの尽き果てたところに親さまに遭えたといって南無阿弥陀仏のよろこびが次々と綴られている。