今月の言葉(2019年2月)
※「今月の言葉」は、山門(A)と通用門(B)の各掲示板に毎月初めに掲示します。
(山門脇の「言葉」は、真宗教団連合発行の「法語カレンダー」より)
※恥ずかしながら、住職が揮毫した「言葉」を掲示しています。
※2019年1月より、A3用紙に仏教に関する内容を簡単にまとめ、「A3仏教」と名付けて上記掲示板に掲示することにしました。若干手を加える場合がありますが、ここにも掲げることにします。今月は先月の分と2回分です。
今月の言葉(A)
「きくというは 信心をあらわす御[み]のりなり」
(親鸞聖人著『一念多念文意』より)
現代語訳
聞くというのは、如来の本願を聞いて、疑う心がないのを「聞もん」というのである。(・・・に続いて)
聞くというのは、信心をお示しになる言葉である。
浄土真宗においては、仏法を聴聞(ちょうもん)することが大切だといわれます。その「聴聞」とは、「南無阿弥陀仏」とみ名を称えながら、そのみ名の由縁[ゆえん](因縁)、つまり願いやはたらきを聞かせていただくことです。それが浄土真宗の念仏者の姿だと思います。
※御のり・・・御法。仏法のこと。
※如来の本願・・・如来(仏)はここでは阿弥陀如来のこと。つまり如来の本願とは、阿弥陀如来の衆生救済のための根本となる願い。
※『一念多念文意いちねんたねんもんい』・・・専修念仏は一念多念のいずれにも偏執しない、念仏往生の義であることを明らかにしたもの。『一念多念証文』ともいう。
※一念多念・・・浄土往生は信心一つで決定する、または1回の念仏だけで決定するとし、その後の念仏を軽視する一念義の説と、一生涯、数多くの念仏を称え、臨終来迎(臨終時に阿弥陀如来がその人を迎えに来ること)をまって浄土往生が決定するという多念義の説。または、両者の論争のこと。
今月の言葉(B)
「亡き友と語らんとして言葉なし
み名を称えて問いつ答えつ」 (足利浄圓師)

まさか自分に来るとは思っていなかった還暦の年に中学校のクラス会を開き、「今度は5年後だぞ!」と約束した年が早くもやって来ました。今回は学年全体の会に拡大しようと連絡を取り合っていますと、多数の病気治療中、親の介護中という情報に交じって亡くなったという情報がいくつも入ってきました。
この頃は、OB会などを開いても「黙とう」から始まることが多くなってきました。
幼い頃に一緒に遊んだり、青春時代を共に謳歌したりした仲間達。悲しい報せを聞き、かすかに唇が動き「ナンマンダブツ」。
声にならない声で呼びかけても返事はなく、かつてのようにポンポンと言葉が行き交うことはありません。「いい人生だったか?」「少々短かったけど悔いはないか?」と問いかけるけどやはり返事はなし。でも、「楽しかったなー」「よく飲んだなー」「いいやつだったなー」と思い出に浸りながら、「これからの人生を無駄にすまい」「いのちの重さ尊さを置き土産にしてくれたのか」と、また「ナンマンダブツ」と唇が動く。
※足利浄圓・・・1878~1960、広島県出身。浄土真宗本願寺派の僧侶。アメリカ開教使を務め、後に文書による伝道を盛んにしようと出版社「同朋舎」を設立した。
《 お焼香の回数 》 …「A3仏教」2019.1
あなたはお参りの時、お焼香を何回しますか。1回ですか、2回ですか、3回ですか?
私どもの浄土真宗本願寺派(西本願寺)では1回です。焼香前に一旦合掌することなく、香を額に押し戴くこともせず、焼香後に合掌して「南無阿弥陀仏」と称えて礼拝をします。
ただ、焼香の回数は各宗派で決まっていますから、参詣する寺や家に合わせるのでなく、どこに行ってもご自分の宗派の作法でOKです。お数珠(念珠)を忘れないで!
《 天国、冥土、浄土 》 …「A3仏教」2019.2

「天国で安らかにお眠り下さい」。
この頃は、仏式のお葬式でも聞かれる言葉です。
どうしたものか「天国」が死後の世界を表す言葉として身近になっているようですが、一般的にはキリスト教で用いる言葉ではなかったでしょうか。
仏教、特に浄土真宗ならば故人は「お浄土」に行かれるはず。
ちょっと気をつけてみませんか。
また、「ご冥福をお祈りします」も盛んに使われます。冥土は死者の霊魂の行く迷いの世界、だからこそ幸福を祈らねばならないのです。
しかし、私たちお念仏を喜ぶ者の行く「極楽浄土」は極めて楽しい、迷いのない世界ですから幸福を祈る必要はまったくありませんね。
※「今月の言葉」は、山門(A)と通用門(B)の各掲示板に毎月初めに掲示します。
(山門脇の「言葉」は、真宗教団連合発行の「法語カレンダー」より)
※恥ずかしながら、住職が揮毫した「言葉」を掲示しています。
※2019年1月より、A3用紙に仏教に関する内容を簡単にまとめ、「A3仏教」と名付けて上記掲示板に掲示することにしました。若干手を加える場合がありますが、ここにも掲げることにします。今月は先月の分と2回分です。
今月の言葉(A)
「きくというは 信心をあらわす御[み]のりなり」
(親鸞聖人著『一念多念文意』より)
聞くというのは、如来の本願を聞いて、疑う心がないのを「聞もん」というのである。(・・・に続いて)
聞くというのは、信心をお示しになる言葉である。
浄土真宗においては、仏法を聴聞(ちょうもん)することが大切だといわれます。その「聴聞」とは、「南無阿弥陀仏」とみ名を称えながら、そのみ名の由縁[ゆえん](因縁)、つまり願いやはたらきを聞かせていただくことです。それが浄土真宗の念仏者の姿だと思います。
※御のり・・・御法。仏法のこと。
※如来の本願・・・如来(仏)はここでは阿弥陀如来のこと。つまり如来の本願とは、阿弥陀如来の衆生救済のための根本となる願い。
※『一念多念文意いちねんたねんもんい』・・・専修念仏は一念多念のいずれにも偏執しない、念仏往生の義であることを明らかにしたもの。『一念多念証文』ともいう。
※一念多念・・・浄土往生は信心一つで決定する、または1回の念仏だけで決定するとし、その後の念仏を軽視する一念義の説と、一生涯、数多くの念仏を称え、臨終来迎(臨終時に阿弥陀如来がその人を迎えに来ること)をまって浄土往生が決定するという多念義の説。または、両者の論争のこと。
今月の言葉(B)
「亡き友と語らんとして言葉なし
み名を称えて問いつ答えつ」 (足利浄圓師)
まさか自分に来るとは思っていなかった還暦の年に中学校のクラス会を開き、「今度は5年後だぞ!」と約束した年が早くもやって来ました。今回は学年全体の会に拡大しようと連絡を取り合っていますと、多数の病気治療中、親の介護中という情報に交じって亡くなったという情報がいくつも入ってきました。
この頃は、OB会などを開いても「黙とう」から始まることが多くなってきました。
幼い頃に一緒に遊んだり、青春時代を共に謳歌したりした仲間達。悲しい報せを聞き、かすかに唇が動き「ナンマンダブツ」。
声にならない声で呼びかけても返事はなく、かつてのようにポンポンと言葉が行き交うことはありません。「いい人生だったか?」「少々短かったけど悔いはないか?」と問いかけるけどやはり返事はなし。でも、「楽しかったなー」「よく飲んだなー」「いいやつだったなー」と思い出に浸りながら、「これからの人生を無駄にすまい」「いのちの重さ尊さを置き土産にしてくれたのか」と、また「ナンマンダブツ」と唇が動く。
※足利浄圓・・・1878~1960、広島県出身。浄土真宗本願寺派の僧侶。アメリカ開教使を務め、後に文書による伝道を盛んにしようと出版社「同朋舎」を設立した。
《 お焼香の回数 》 …「A3仏教」2019.1

私どもの浄土真宗本願寺派(西本願寺)では1回です。焼香前に一旦合掌することなく、香を額に押し戴くこともせず、焼香後に合掌して「南無阿弥陀仏」と称えて礼拝をします。
ただ、焼香の回数は各宗派で決まっていますから、参詣する寺や家に合わせるのでなく、どこに行ってもご自分の宗派の作法でOKです。お数珠(念珠)を忘れないで!
《 天国、冥土、浄土 》 …「A3仏教」2019.2

「天国で安らかにお眠り下さい」。
この頃は、仏式のお葬式でも聞かれる言葉です。
どうしたものか「天国」が死後の世界を表す言葉として身近になっているようですが、一般的にはキリスト教で用いる言葉ではなかったでしょうか。
仏教、特に浄土真宗ならば故人は「お浄土」に行かれるはず。
ちょっと気をつけてみませんか。
また、「ご冥福をお祈りします」も盛んに使われます。冥土は死者の霊魂の行く迷いの世界、だからこそ幸福を祈らねばならないのです。
しかし、私たちお念仏を喜ぶ者の行く「極楽浄土」は極めて楽しい、迷いのない世界ですから幸福を祈る必要はまったくありませんね。