今月の言葉(2019年4月)
※「今月の言葉」は、山門(A)と通用門(B)の各掲示板に毎月初めに掲示します。
(山門脇の「言葉」は、真宗教団連合発行の「法語カレンダー」より)
※恥ずかしながら、住職が揮毫した「言葉」を掲示しています。
※2019年1月より、A3用紙に仏教に関する内容を簡単にまとめ、「A3仏教」と名付 けて上記掲示板に掲示することにしました。若干手を加える場合がありますが、ここにも掲げることにします。
今月の言葉(A)
「真実の信心はかならず名号を具す」
(親鸞聖人著『教行信証 』より)
現代語訳
この真実の信心には、必ず名号を称えるというはたらきがそなわっている。
「真実の信心は必ず名号を具す」の名号は、称名(「南無阿弥陀仏」と称えること)のことです。「具す」につづいて、「しかしながら、名号を称えていても必ずしも他力回向の信心がそなわっていると限らない。」とあります。
「ごめんなさい」と言ったから、必ず心底詫びているとは限らない場合がありますが、本当に申し訳ないと思っているのならば自然に「ごめんなさい」と口に出る。という感じでしょうか。
「南無阿弥陀仏を称えれば救われる」とよく言われます。「南無阿弥陀仏」は救われるための条件、ということだと思います。
けれども、「南無阿弥陀仏を称える→救われる」の順番ではなく、阿弥陀様はすべての人を救うとおっしゃっているのでそのお言葉を信じ、救われると思えた時に自然と「南無阿弥陀仏」が口に出るのだと思います。しかし、その信じること自体が自ら信じるのでなく、阿弥陀様より「信心をいただく」「信心にめぐまれる」のです。
※教行信証・・・親鸞聖人の主著。「本典ほんでん」ともいう。日頃お勤めして親しんでいる「正信念仏偈」はこの著書の中の偈文。
今月の言葉(B)
「ご縁ご縁みなご縁こまったこともみなご縁」
(念仏詩人 木村無相師)

「この度ご縁があって・・・」というのは普通、そのご縁(関係)を好意的なもの喜ぶべきものとして受け止めているように思います。
また、「それは縁起でもない」という時は、できれば避けたいもの喜ばしくないもの、という場合がほとんどだと思います。
つまり、「縁」は普通、喜びの対象になる事柄に対して使われるようです。
ところが「縁」は仏教の要ともいえる重要語で、ものごと、できごと、あるいは物体などができた(存在する)時の原因をいいます。あるいは「因縁」というような時は因を直接的原因、縁を間接的原因とします。
いずれにしても、原因があって結果があることを示し、そこに善悪、好き嫌いなどの区別や判断、評価をする余地はありません。
もっともその判断評価は多分、自分に都合がいいか悪いかというレベルでのこと。
自分に都合の良いことだけを「ご縁」と受け入れる、ということは本来の縁の意味から遠く離れた理解になると思います。
※木村無相・・・1904~1984、熊本県八代市出身の念仏詩人。20歳の頃、ふと自分の内心に目が向き、両親を怨む自分の根性のひどさに驚いて道を求め始めたという。高野山で真言宗を、京都で親鸞聖人の教えに学ぶということを繰り返し、その後は50代後半に京都・東本願寺の門衛をしながら聴聞に励まれたとか。詩集に『念仏詩抄』がある。
・・・「A3仏教」は、今月はお休みします。また来月よろしくお願いします。
※「今月の言葉」は、山門(A)と通用門(B)の各掲示板に毎月初めに掲示します。
(山門脇の「言葉」は、真宗教団連合発行の「法語カレンダー」より)
※恥ずかしながら、住職が揮毫した「言葉」を掲示しています。
※2019年1月より、A3用紙に仏教に関する内容を簡単にまとめ、「A3仏教」と名付 けて上記掲示板に掲示することにしました。若干手を加える場合がありますが、ここにも掲げることにします。
今月の言葉(A)
「真実の信心はかならず名号を具す」
(親鸞聖人著『教行信証 』より)
この真実の信心には、必ず名号を称えるというはたらきがそなわっている。
「真実の信心は必ず名号を具す」の名号は、称名(「南無阿弥陀仏」と称えること)のことです。「具す」につづいて、「しかしながら、名号を称えていても必ずしも他力回向の信心がそなわっていると限らない。」とあります。
「ごめんなさい」と言ったから、必ず心底詫びているとは限らない場合がありますが、本当に申し訳ないと思っているのならば自然に「ごめんなさい」と口に出る。という感じでしょうか。
「南無阿弥陀仏を称えれば救われる」とよく言われます。「南無阿弥陀仏」は救われるための条件、ということだと思います。
けれども、「南無阿弥陀仏を称える→救われる」の順番ではなく、阿弥陀様はすべての人を救うとおっしゃっているのでそのお言葉を信じ、救われると思えた時に自然と「南無阿弥陀仏」が口に出るのだと思います。しかし、その信じること自体が自ら信じるのでなく、阿弥陀様より「信心をいただく」「信心にめぐまれる」のです。
※教行信証・・・親鸞聖人の主著。「本典ほんでん」ともいう。日頃お勤めして親しんでいる「正信念仏偈」はこの著書の中の偈文。
今月の言葉(B)
「ご縁ご縁みなご縁こまったこともみなご縁」
(念仏詩人 木村無相師)
「この度ご縁があって・・・」というのは普通、そのご縁(関係)を好意的なもの喜ぶべきものとして受け止めているように思います。
また、「それは縁起でもない」という時は、できれば避けたいもの喜ばしくないもの、という場合がほとんどだと思います。
つまり、「縁」は普通、喜びの対象になる事柄に対して使われるようです。
ところが「縁」は仏教の要ともいえる重要語で、ものごと、できごと、あるいは物体などができた(存在する)時の原因をいいます。あるいは「因縁」というような時は因を直接的原因、縁を間接的原因とします。
いずれにしても、原因があって結果があることを示し、そこに善悪、好き嫌いなどの区別や判断、評価をする余地はありません。
もっともその判断評価は多分、自分に都合がいいか悪いかというレベルでのこと。
自分に都合の良いことだけを「ご縁」と受け入れる、ということは本来の縁の意味から遠く離れた理解になると思います。
※木村無相・・・1904~1984、熊本県八代市出身の念仏詩人。20歳の頃、ふと自分の内心に目が向き、両親を怨む自分の根性のひどさに驚いて道を求め始めたという。高野山で真言宗を、京都で親鸞聖人の教えに学ぶということを繰り返し、その後は50代後半に京都・東本願寺の門衛をしながら聴聞に励まれたとか。詩集に『念仏詩抄』がある。
・・・「A3仏教」は、今月はお休みします。また来月よろしくお願いします。