今月の言葉(2019年7

※「今月の言葉」は、山門(A)と通用門(B)の各掲示板に毎月初めに掲示します。
    (山門脇の「言葉」は、真宗教団連合発行の「法語カレンダー」より)
※恥ずかしながら、住職が揮毫した「言葉」を掲示しています。
※2019年1月より、A3用紙に仏教に関する内容を簡単にまとめ、「A3仏教」と名付  けて上記掲示板に掲示することにしました。若干手を加える場合がありますが、ここにも掲げることにします。


《お詫び》
何を勘違いをしていたのかわかりませんが、「今月の言葉」の7月分を下書き状態のままで公開するのを忘れていたようです。8月分の編集中にはじめて気づきました。
そこで、7月分を8月中頃まで公開し、その後8月分を公開することにします。
お見苦しいことで申し訳ございませんが、どうぞよろしくお願いします。



今月の言葉(A)

「浄土真宗のならいには念仏往生ともうすなり」 
               (親鸞聖人作『一念多念文意』より)


現代語訳
 
浄土の真実の教えでは、念仏往生というのである。(続いて)決して一念往生ということも、多念往生ということもない。


阿弥陀仏が私たちを救おうと「南無阿弥陀仏」を称えなさいとおっしゃる時、それを信ずる者は1回でよいとか、たくさん称えた方がよいとかは思わず、有難さを感じた時はいつでも思わず「ナマンダブ」と声に出してしまう。

※一念多念・・・浄土往生は信心一つで決定する、または1回の念仏だけで決定するとし、その後の念仏を軽視する一念義の説と、一生涯、数多くの念仏を称え、臨終来迎(臨終時に阿弥陀如来がその人を迎えに来ること)をまって浄土往生が決定するという多念義の説。または、両者の論争のこと。親鸞聖人門下でも、この論争は生じた。

※『一念多念文意いちねんたねんもんい』・・・親鸞聖人は、専修念仏は一念多念のいずれにも偏執しない、念仏往生の義であることを明らかにし、この書を著した。法然聖人門下の隆寛著『一念多念分別事』を註釈したものである。『一念多念証文』ともいう。

※念仏往生・・・諸行往生に対する語。阿弥陀仏が私たちを救わんがために、私たちに差し向けた名号(南無阿弥陀仏)を信じ称えて浄土に往生すること。



今月の言葉(B)

「生のみが我らにあらず死もまた我らなり 
                     (真宗大谷派僧侶 清沢満之師


生があるから死が当然ある。不老長寿の薬でも発明されれば別かもしれないけれど。
先月のこのページでは、この頃の法事での喪服(黒い礼服)に拘る方が増えているように書きましたが、その理由はいくつか考えられますが、大きな理由の一つとして法事をなるべく日常とは切り離した特別なものしようという気分があるのではないかと思っています。つまり、法事は死者の行事であり、生きている私いつまでも生きていたい私はなるべく死を日常から遠避けたい。生きている日常と死を分けるために喪(黒)服を着るのではないでしょうか。と考えることがしばしばあります。


※清沢満之[きよざわまんし]・・・1863~1903、真宗大谷派僧侶、名古屋市生まれ。私塾浩々洞を開き、雑誌「精神界」を発刊するなど精神主義運動を展開するとともに、真宗大学の初代学監に就いた。大谷派教学に大きな影響を与えている。



 《 一家に1基、お仏壇 》 「A3仏教」2019.7

お宅にはお仏壇が安置されていますか? 実家にあるから我家はいらない、我家はまだ葬式も出していないからなくてもいい。そう思っていらっしゃる方もきっと、大勢いらっしゃるでしょう。
でも、せめて所帯を持たれたらお仏壇をご用意ください。お宅のご先祖様の時代からからずっと見守っていらっしゃる仏様ですから、あなたも見守ってくださっているのですよ。
新所帯の方に準備する余裕はあまりないでしょうから、親が用意すればいいのです。仏様には失礼な言い方ですが、お雛様や武者飾りに習ってのことでも結構ですから。お雛様や武者飾りよりも教育的価値はあるように思います。しかも、1年に数日の出番だけではなく、毎日ですから。
そんな気持ちから、ちょっと大げさな話ですが、子どもさんが遠くの大学に入学なさって下宿生活(表現が古いですね)されるのならば、そこにもお仏壇を用意するといいですよ。と私はお話ししています。当然大きなものでなくてもいいので、準備されるといいと思います。(右写真は、本願寺で受けられるご本尊。机の上などのわずかな場所に安置できる)